リスクを背負って生きる
東京電力の清水社長が原子力発電所の放射能漏れにより避難している住民および福島県知事に対して謝罪をした。
この映像や関連する新聞記事に関して思うことがあったので、メモしておこうと思った。
東電社長に住民から怒号 郡山の避難所、子供の将来に不安訴え
東京電力の清水正孝社長は22日午後、福島第1原子力発電所事故で福島県富岡町と川内村の住民が避難する同県郡山市内の施設を訪れ、事故後初めて住民らに謝罪した。土下座する清水社長に対し、住民からは「子供の将来はどうなる」「原発を東京へ持って帰れ」などの怒号が相次いだ。(以下、引用サイト参照)
日本経済新聞 2011年4月22月 Web刊 「原発を持って帰れ」
避難を余儀なくされ、目に見えない放射能の恐怖におびえる地元の心情は同情するに余りある。
また、長年育んできた大地や作物、家畜が汚染され、失われていくことは、言葉にできないほどつらく、僕らの理解や想像をはるかに超えているだろう。
しかし、映像を繰り返し観るうち、以下の疑問と考えをもつようになった。
- 原子力発電所を福島県浜通り地区に誘致・建設したのは、政治家ではないのか?
- 原子力発電所は、当時の政府、県、地元自治体、ひいては地元住民の合意の上で建設したのではないか?
- 原子力発電所により、これまで、地元住民も十分な恩恵を享受してきたのではないか?*1
したがって、まず謝罪に行くべきは原子力発電所建設に関与した政治家ではないかと思った。「原発を東京へ持って帰れ」と現地の方が仰ったが、(心情は察するに余りあるが)民主的プロセスを経て建設されたはずであろうし、多少なりとも恩恵を受けてきたはずであるから、”非常に考えさせられた”*2。
そして、国、地方自治体、現地企業、現地住民がどこまで責任と義務、リスクを負えばよいのか、再考させられた。何かを受け入れるということは、その恩恵とともにリスクをも背負うということだ。
リスクに強い国には、リスクに強い個人が不可欠。国に頼り、国に従い、国に保証してもらう個人が多い国には、リスク管理は存在し得ない。
元ソフトブレーン社長の宋文州氏は、Twitter上でこう発言した。リスクに強い国や組織をつくるためには、リスクに強い個人が必要なのだ。僕らは得ることばかり考えてしまい、この当たり前のことを忘れがちだ。そしてそれは、計画停電を経験した都会で生活する人たちも同じだろう。
では、リスクを背負って生きるとは、具体的に何をすれば良いのか?作家の曽野綾子氏は「国家に頼らず自ら行動を」と題して示唆に富むメッセージを送っている。
私たち日本人は、戦後の復興と高度経済成長を経て有頂天になっていた。今回の東日本大震災によって、甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた。
(中略)
「欲しい」と思えば何でも手に入る社会は、異常社会だ。私は、電気も水も止まるものだと思っているから、普段から自宅の瓶に水を取り置き、練炭、炭、火鉢も床下に保管している。カセットコンロも常備している。頻繁に停電するアフリカでは、いつも手元のバッグに階中電灯と水、ビスケットを用意している。
政治家は「安心して暮らせる社会を作る」と言うが、そんなものはありえない。老年世代までが、政治家のそんな言葉を信じていた。政治家も有権者も、自分の頭で考えることをしなくなっている。
震災後、政府の不手際や東京電力の失敗はあったかもしれない。しかし、犯人捜しをしても仕方がないことだ。現在のシステムは複雑で、総合的に見ないと日本は復興に向かって歩き出せない。そうした時代を生きる私たちは、国家やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ。日本には優秀な技術者や官僚がいるから、被災したライフラインも間もなく復旧されるだろう。私もシステムにお世話になっているが、最後は自分で自分を助けることができなければ、人間としての義務に欠けると考えている。
国家がすべて何とかしてくれると考えるのは違う。めいめいが自分で考え、行動する癖を見につけることだ。それは他人の痛みを部分的に負うことでもある。被災地の支援も国家に頼るのではなく、「痛い」と感じるくらい自らお金を出すことだ。出さない人がいてもいい。だが、そうした人は人権だ、権利だと言わないことだ。
(中略)
アウグスティヌスは「すべて存在するものは善いものである」と言う。この世にあるもの、起こることには意味があるということだ。今回の事態から何を学ぶか。一人一人が考えることだ。
リスクを背負って生きること、これは非常に大切なことだ。とはいえ、現地住民のつらさ、苦しみは同情に余りあることは改めて言っておきたい。僕ら都会の人々は、お金を払う対価として電気と安全を買っている。一方、現地住民は、安全を対価として仕事や生活を買っている。
それらはトレードオフの関係になっており、資本主義の世界では常識的なことだ。しかし、それでも僕らが現地住民に対して同情してしまうのは、やはり、社会は資本主義の原理だけで成り立たないとわかっているからだろう。