我が家にテレビが来た、それで?
東日本大地震を通して、悲しみや切なさ、怒りなど、多くの感情が僕の心の中をかけ巡った。テレビやラジオ、新聞がなく、情報が限られていた僕でもそれができたのは、インターネットやテレビがあったからだと思う。
今でこそ配信が終わったが、震災直後からUstream.tvでTBSやNHKのニュースを観ることができたし、ツィッターで各人のつぶやきやリツィート(情報転載)を読むことができたからだ。そして、逐一入る衝撃的な映像や被害状況を見聞きしていくうちに、僕自身がそれにのめり込んでいった。
テレビによって大きく心を動かされ、改めて、その影響度の大きさを知った。
しかし、ふと目をつぶり、耳を塞いで考えてみる。僕らはなぜこんなにも心を揺さぶられてているのだろうか?余りにも多くの人が死んだからだろうか。そうであるならば、一つ疑問が残る。
現在の死者・不明者数*1は約2万8千人。2010年の自殺者数*2は31690人。つまり、今回の地震で犠牲になった方*3は昨年の自殺者にも及ばない。それなのに、僕を含めた生きている人々は、今回の被害状況を嘆き悲しんでいる。ましてや、自殺者数はここ10年ほどは毎年3万人を超えているのだ。
自殺をした方もそれなりの人生があり、生き続けたいと思っていたはずであるし、残された家族や友人もいたはずだ。僕らはなぜこうして死の重みに差をつけてしまうのだろうか。統計的規模でいえば、自殺者数が多いことの方が由々しきことであり、早急に対策すべきであるように思える。それでもなぜ、僕らは必死になって震災にあった人々を助けようとするのだろうか。
その理由の一つとして、テレビの影響が考えられる。だから、テレビの伝える情報は恣意的であり人の心理に与える影響も大きいことに留意し、視る側がある程度の思考力をもっておくことが必要だろう。テレビは一方で個性を殺し、一方で個性を押しつける、極めて特異なメディアだからだ。
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一方で、僕らの行動はごく自然な反応であるとも言える。苦しんでいる人たちに対して共感することは、進化論的にも合理的な行動と考えられるからだ。おそらく、無意識のうちに、助け合っていくことの方が生存する確率が高いと感じているのだろう。共感するというのは、それに必要不可欠な行動といえる。ヒトがここまで繁栄できたのはこのように社会をなしてきたからなのだろう。
4年ぶりにテレビが我が家に来たということで、そのうれしさを表現しようと思っていたが、いざ書き出しみると、具体的にそれが何か思い当らず、自戒となってしまった。結局のところ、テレビの影響度も有効度も、自分がどれだけ意思をもってそれに接するかによって変わるのだと思う。
テレビは瞬時に情報の全体像を掴む上では有用な手段であることには間違いないが、とはいえ、きっとこれからも変わらない生活を送るだろう。