関係と記憶
Xが中国に帰ってもうすぐ2週間。寂しいと言えば寂しい。短い期間だったが、お互いを知ることができた。少なくともお互いを知ろうと努力した。お互いがそうすることはとても重要だとおもう。男と女の関係のあり方には色々あるが、僕にとってはそれはフェイタルなことだった。
しかしいつまでも悲しんではいられない。25年も生きれば「別れ」と付き合う術くらいもっておくべきだ。と自分に発破をかけてみる。そんな考えを持つなんて生きることに慣れてしまったんだなあと感心する一方で、明らかに心のみずみずしさが失われたことを悲しくもおもう。人間そうやって大人になっていくのよって言われたらおしまいなのだが、僕はその「大人」ってやつになっていくと思われる。
Xと共に時間を過ごして身に付いた習慣は、ジャズを聴くこと、(高い値段のする)野菜100%ジュースを飲むこと、映画を観ることなどがある。それらは身に付いたとも言えるし、もとより共通の習慣だったとも言えるだろう。彼女の部屋は綺麗だった。インドアな生活が好きだったが、一方で1人で九州や奈良に旅をする行動力もあった。現代中国では珍しく3人兄弟がいて、生活は決して楽ではなかった。社交的とは言えなかったが、友人は多かった。落ち着いていたが、夜に突然涙ながらに電話をしてくる事もあった。僕は彼女の何が気にいっていたのだろうか。分からない。自分を知ってもらいたいという欲望と相手を知ろうとする好奇心、それに基づいた行動の過程で好きになるのだろう。いや、そんななのは後付けで、彼女の貞淑さに魅せられただけなのかもしれない。男なんてそんなもんよって、新宿2丁目辺りで相談したら言われるかもしれない。
いづれにしても、彼女といた時間は決して忘れることはないだろう。記憶というのは、人との関係性の中で築かれていくのかもしれない。だから、人を大切にすることは自分を大切にすることでもあるのだと思う。