代償を払って生きること
YOUTUBEでドキュメンタリ番組『若者たち』を見た。
これは、中国から夢を追って日本にやってきた若者の記録である。一人は、中国の高校卒業後に親戚づてに来日し、一年間の日本語学校を経て千葉大学工学部に入学した女性の記録。もう一人は、妻子がいる20代後半の男性が来日し、一から日本語を習得し、懸命な勉強の末明治大学商学部に入学した記録。二人の純粋で、懸命に努力する姿がとても印象に残った。
映像としては古い。撮影者もプロではない。来日後日本語を習得し、働きながら大学に通う留学生も決して稀ではない。現に、僕の父もそうであった。父と同世代(文革世代)の留学生仲間はほとんどが妻子がいながら来日して大学院まで通った。だから、この映像を見て新しい発見というか、視点というか、そういったものを決して得たわけではなかった。
たが、何か今まで悶々と悩んでいたこと、考えていたことが形になったような気がした。
僕は、日本に来て苦労してきたと思い続けてきた。一方で、果たしてそうだろうか、実際は親の庇護の下で自ら代償を払うことをしていないのではないか、自らが選択した行動や進路も親の後ろ盾を前提にしてきたのではないか、という思いもあった。ここ数年、そんな思いが交錯していた。僕は、自分が「代償」を払うことの必要性(必然性)を認識しながらも、前へ進む勇気がなかった。今回、このドキュメンタリを見て、自分が代償を払って努力することの大切さ、そしてそれでしか得られないものが確かにあるということが分かった。その意味で、何かが前へ進んだ気がした。
小さな一歩でもいい、前へ進め。大きなことを成し遂げることだけが生きる目的ではない。小さなことでもいい。無駄になってもいい。恥ずかしくてもいい。傷ついてもいい。自分に素直になって、目指すゴールにむかって、前へ進むことが大切なのだ。そしてそれが生きることなのだ。僕はそんなメッセージをもらったような気がした。
それは以前から分かっていたことなのかもしれない。でも、僕は今までそれを確信することができなかった。親の苦労や絶望という十字架を背負っていくうち、自分の存在意義を失い、理想自己だけが膨れていったのかもしれない。やがて自分の人生に絶望してしまった。
人間、「自由であること」を突き詰めれば、「孤独であること」にも耐えなくてはならない。でも、そうして自分だけの足で独りで立つことができてこそ、人は本当の意味で他の誰かと関わることができるんじゃないかと。そうすることで初めて、何ものにも惑わされない自分だけの「幸せ」を見つけることができるんじゃないか。
(村山由佳『星々の舟』あとがき)
今僕は、「僕」になれる可能性を持っている。ここでその可能性失ってはいけない。誰だって絶望するんだ。でも、その中でも前へ進めるんだ。
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話を戻すが、ドキュメンタリに出てくる韓さんらの、地道で継続的な努力はぜひ学びたい。